30年以上前に始まった、
中央会計社の挑戦。
1991年。先代の筒井敦子が「筒井敦子税理士事務所」を設立したところから中央会計社は始まりました。先代は、現代表の筒井彰英(以下、筒井)を含む3人の子供を育てながら、早朝から深夜まで働き詰めるハードワーク。血のにじむような努力で会社の基盤をつくりました。そんなルーツのある中央会計社の挑戦と成長の軌跡を、筒井の人生を軸に、物語形式でご紹介していきます。
2009年、29歳の若さで創業者である母・敦子の跡を継いで代表に就任。
「永続的な会社づくり」を目指す。
「人間の底辺」から脱却すべく、 ニュージーランドへの留学を決心。 ニュージーランドへの 留学を決心。
「自分は、人間の底辺かもしれない」。17歳の筒井は河川敷で1人涙を流していた。母親だけでなく、父親も経営者。周囲から見れば「エリート一家」に生まれた。なのに、第一志望の高校受験に失敗。入学した先でも勉強に身が入らない。工事現場のアルバイトで稼いだ数千円をパチンコに費やすような日々だった。気付けば、財布の中身は、誇張でも何でもなく、1円玉1枚だけに。「俺って、こんな人間だったっけ?」あまりの情けなさに涙が溢れ出た。そんな時、関係が悪化しつつあった両親から、ニュージーランドへの語学留学の話が届いた。「ここで自分を変えなければ、本当に人生が終わってしまう」。最後のチャンスだと首を縦に振り、10時間以上のフライトで異国の地へ渡った。
母親の病がきっかけで、 外資系企業から 中央会計社へ。
現地の高校を卒業した筒井は名古屋の大学へ進学。在学中に税理士資格を取得し、その後、東京の国内最大級の外資系税理士法人に就職を果たした。「河川敷で泣いていた頃とは真逆の人生です。とてもやりがいを感じていました」。英語力と税理士としてのノウハウを発揮し、若手のうちから活躍。しかし、その矢先だった。母であり、経営者である筒井敦子に病が発覚した。後継ぎ候補として筒井に白羽の矢が立ち、生まれ故郷の愛知県へ帰郷することになったのだった。「正直、最初は前向きではありませんでした。ずっと、東京の第一線で働きたい気持ちが強かったので...」。4年後、母の筒井敦子が他界。筒井が代表に就任。母がつくった会社で、ただがむしゃらに働き続ける生活が始まった。
がむしゃらに駆け抜けた5年間。 経営者としての使命が見つかった。 経営者としての 使命が見つかった。
1つ1つの仕事に全力で取り組む。目の前のお客様に安心を届ける。そんな日々を駆け抜けて5年が経った頃、筒井はやっと、中央会計社を経営する“使命”や“誇り”について、深く考えるようになっていた。「母親のために...と普段から思うことはさすがにありません。でも、経営する中でふと思うことはあります。母親がつくり、成長させてきたこの会社を永続的な会社にしたい。道半ばで終わってしまった母親の無念を少しでも晴らしたいと」。
税理士法人は、一度ご契約いただけると、定期的に売上が上がるストックビジネス。新しい挑戦をしなくても存続できるというのが一般的な考え。しかし中央会計社は、事業、採用、業務効率化など、あらゆる面で新しい取り組みを行い、新しい技術や制度を常に取り入れている。「永続的な会社になるには現状維持ではいけません。多くが現状維持につとめている業界だからこそ、新しいことに挑戦し続けることが大切なんです」。お客様の数も、従業員数も、右肩上がりで成長を続けている会社の源は、挑戦し続ける姿勢にある。
「中央会計社で良かった」と 思ってもらえる会社をつくる。
筒井には理想の会社像がある。「従業員が“中央会計社で働けてよかった”と心から思える会社にしたいです。綺麗事に聞こえるかもしれません。でも、これが、15年近く経営してきた今の本心です」。数年前から、全従業員の前で経営計画を発表するようになった。2023年には、経営理念を思い切ってリニューアル。今後、売上はまだまだ追い求めるし、新しい仲間もどんどん迎え入れる。必要であれば、株式市場への上場という目標を掲げる日がくるかもしれない。でも、それらはあくまで手段。「従業員が“働けてよかった”と心から思える会社をつくる」という目的のために、難しいことでも、苦手なことでも、業界の常識にはないことでも、前向きに挑戦し続ける。
沿革 COMPANY HISTORY
社員旅行でハワイ(売上3億突破記念)
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数字で誇れる人生を、
共につくっていきましょう。